2196492 ランダム
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第7官界彷徨

第7官界彷徨

まぼろしの追原ダム

私の手元に1冊のパンフレットがある。水色のきれいな表紙に1羽のかわせみ。追原ダムのパンフレットだ。私たちは愛する追原を水没から守るため、さまざまな運動を展開し、たくさんの人と知り合い、環境を守れという世論の追い風を受けて、追原ダム計画を中止させることができた。
初期の作品集から

短歌    追原うさぎ A

身の丈にくり貫かれたるトンネルをいくつもくぐりそまの路ゆく

追原とう村通り過ぐ棲む人の絶えて久しい山深き村

三十年かけて原野に還りたる廃村にもみじ苺色づく

梅、茶、柿、雑木林に紛れいて隠し絵のごと暮らし顕ちくる

日溜まりにりんどうの葉も紅葉して追原へまた吊り橋渡る

冬の日の届かぬ森の奥深く身を寄せ合いて鹿眠るらし

靴底にゆっくり返る腐葉土の弾み楽しみ冬林ゆく

今ごろは谷に鹿らの水飲むらん放射冷却著き夜の更け

ふさ桜七里川に沿うて芽吹きおりやがて紅色点す山峡

うすくれない、萌黄、さみどり、深緑、塗り重ねゆく春の追原


詩        
「みつめてください」  ローザ


七里川のつり橋を渡れば
追原という廃村がある
雑木林に埋もれた茶畑や
たんねんに開墾した小さな田んぼ
肩を寄せあった小さなお墓
山ふところに抱かれたこの廃村の
人々の暮らしのあとがいとしくて
わたしは幾度かつり橋を渡った

あの追原にダムができるという

鶴嘴の届く高さしかない随道や
遺跡のように佇んでいる炭焼き窯のあとや
なだりをうめて咲くシャガや冬苺の群落や
わたしたち侵入者を
いつも息をつめて見つめていた
森の奥に棲むちいさなけものたちも
蛇も山ヒルも
みんな水の底に沈めてしまうのだという

大企業のもうけ優先の乱開発で
わたしたちのふるさと房総の自然が
もう十分に傷つけられてしまった今
水を蓄える山の木をえぐり取って
ダムを作るという短絡を
このまま許してしまっていいのだろうか

むかしの人は太陽の恵みを
大事に大事に一年で使った
たとえば灯り
いちめんの菜の花畑からとれた油を次の一年で消費をした
たとえば紙
前の年に伸びたミツマタの枝を
刈り取って美しく丈夫な和紙を作った
決して減らない自然の恵み
山も田んぼも自分たちの代で減らすことは恥だった

今 人間たちは
どこかへ向かってひた走る
何十億年単位で蓄えてきた地球のエネルギーを無造作に消費しながら
目先の利益や心地よさに心を奪われて
次の世代に手渡すものまで使いきって
ことばをもたない小さないのちたちまでを巻き添えにしながら
破滅に向かってひた走る

だから
みつめてください追原のこと
むかしの人のくらしの仕方
考えてくださいダムのこと
誠実に今を生きてふるさとの自然を守る方法を



追原宣言ー1998年3月29日
小櫃川上流の七里川渓谷を塞き止めて「追原ダム」を造る計画が、千葉県によって進められています。この事業は小櫃川水系小櫃川総合開発事業の一つで、洪水調整、川の流れを正常に保つ、上水道用の水源確保、等々の多目的ダムということです。ダムの規模は、黄和田畑橋の手前小櫃川本流の川床、海抜115メートルの位置に、高さ46メートル、堤頂の長さ139メートルのコンクリートダムで、事業費260億円の巨費を要すると聞きます。このダムは744万トン水を貯め、湛水面積は6900アールにもなり、水没する県道、市原ー天津小湊線のつけかえ工事も大規模なものです。この工事による影響は重大なものです。川床と両岸の崖が美しく、夏の川あそびや秋の紅葉で県民に親しまれてきた七里川渓谷は水没します。フサザクラの群生や貴重なクマシデの植生、ミドリシジミチョウやオオムラサキの生態にも重大な影響が出ます。文化遺産でもあるキンダン川の川廻し跡の大洞も水の底になり、隠れ里の追原屋敷跡も破壊されます。一方、下流の亀山ダムや建設中の片倉ダムとの関連で、小櫃川の水流そのものに重大な変化が起き、流域の人里や河口の干潟にも影響が出ることが予想されます。
 私たちは身近にあって、先人たちの生活の匂いが残り、かつ自然豊かな千葉の山や谷に幾度も訪れ明日への活力を享受しています。それだけにこれらの自然環境を次代に残さねばと考えています。
今計画中の事業に関連し、地元住民の永年の夢である県道、市原ー天津小湊線の2車線化改良工事の要望の強さも、私たちは充分承知しています。県の道路改良工事の遅れを、ダム建設にからめるのはスジちがいで、追原ダム建設と切り離して事業を進めることを求めます。
 この際、県民に良好な県土を提供するという、県の原則的責務を重視し、追原ダム建設計画全体の見直しを求める事、そして1894年より「森林学」分野の学究の場を提供し、それゆえ「開発」を阻止してきた東京大学演習林を、この代に一部といえども濫用する事の無いよう、広く内外に宣言します。
  1998年3月29日
   追原ダム建設現地調査団にて採択



2005年5月
追原うさぎAからメールが来て、また盤洲干潟の鵜団地の鵜の様子を見に行ったそうで
す。この鵜団地は、木更津の小櫃川河口にあり、飛行機が羽田めざして飛んで行く時、
まん丸の形の池が見えますが、そこです。あの巣(雑な作りの空き家みたいな巣)か
ら大きくなったヒナが顔を出して大きな口を開けたりしていたそうです。他の巣でも、
餌を待っているのや、巣の外でつつき合って遊んでいるのや、にぎやかな子育て中だっ
たとか。キジ、ヨシキリ、サギ、セッカなどに会えて、充実したバードウオッチング
だったとか。ちなみに、彼女の別宅の名前は「やまがら亭」といい、木製のバルコニー
のひさし部分が木の枝や蔓でおおわれているため、野鳥がすっかり気を許して飛び回っ
ています。野鳥が来るとうさぎたちは息をひそめて見守ります。さて、このブログの
ジャンルは小説、コミックだったような・・・。そこで本日は吉野朔美の「月下の一
群」について。すじはどうってことないんですが、全編にちらばる言葉は詩そのもの。
二十四番花信風・山茶(つばき)・水仙・瑞香(じんちょうげ)ひと吹きごとに花咲
けり/咲きてひと風冬薔薇(そうび)なんてはじまって、シーンを変えるときに「季
節は花から雨に変わりました」「6月です」となります。今日はまだ5月だけど、爛
漫の花の春も終わりを感じてしまうような雨の夜で、季節は花から雨に変わりました
なんて、素敵。





2005年5月
 鴨川に行きました。房総半島の最先端です。海の色が青くてとてもきれいでした。木更津を抜けて久留里の町を抜けるとなつかしい追原へ続く道です。
 山の木々は何種類もの緑色をしていて、真みどりから黄色に近い緑まで、それぞれの自己主張をしていてむくむくと山が大きくなっているような感じでした。久留里のお城は雨城といい、3万石だったそうですが、結構いい城下町です。作り酒屋が何軒もあり、道ばたには観光客が水を汲む井戸があちこちにあります。
 久留里から亀山まで行く途中に上総富士といういい形の山がありますが、これは全部がゴルフ場の持ち物で、一般人は入れません。山が個人の私物なんてちょっと変な感じ。まあ、殆どの山は誰かの物ではあるのですが、大体通り抜けくらいは、または山菜とりくらいは許されていますよね。
 その近くの、ずっと前、山セミ(鳥)の繁殖地だったところも、まわりが4車線の道路に囲まれてしまいそうで心配です。

2005年9月
 秋が深くなると、自家製のたくあん漬けをもらいますけど、おいしいですよね。たまにまずいのもありますけど、そんなときは、食べる大きさに切って、お酢に漬けてみてください。

 市販品の甘すぎるのや、塩辛すぎるのも、半日くらいお酢に漬けておくと、別のものみたいにおいしくなります。酸っぱいのが苦手な人は、ちょっとお勧めできませんけど。
 塩漬けの辛すぎるのとか、味が少なすぎるのとかもおいしくなります。色が悪くなりますけど。キュウリや茄子の漬け物もおいしくなりますよ。

 お酢といえば、追原ダム問題で初めてKさんに会った時、彼は「クエン酸」に凝っていて、「クエン酸」についての自作の小論文をプリントして私たちうさぎたちに配ってくれました。あやしい健康食品の売人かと、うさぎたちはちょっと警戒しましたが、他意の無い、他愛のないいい人だったことが判明、だたお酢と水問題に凝っていただけだったのね。

 そして、彼らと立ち上げたのが「小櫃川源流域の自然を守り育む連絡会」長い名前だから、誰も覚えられないよと、うさぎたちは反対したかったのですが、よく知らない人の所でごねるのもちょっと・・と思い、その名前になりました。

 私たちはKさんに「クエン酸」というあだ名をつけました。そして追原問題でつきあいを深め、私たちは生涯の友となりました。脱ダムの世論の声が高まり、国土交通省の方針がかわり、大型公共事業の見直しが行われ、「時のアセス」というすてきな名目で、追原が守られたあと、私たちはその川の河口域を守る運動にもかかわり再び長い名前の「小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会」を立ち上げ、現在Kさんはその代表です。

 そうそう、kさんの友人で「出納帳」ってあだ名をつけた人もいます。「出納帳」は、初めて出会った時、彼の友達が県の出納帳になったと話してくれたから。Kさんと私たちの仲介役になってくれたMさんは「スナフキン」というあだなをつけました。これも、初めて出会ったとき、色も形もムーミンに出てくるスナフキンにそっくりな帽子をかぶっていたから。ムードもステキなスナフキンふうです。私は、出会った最初に、まず、あだ名を付けちゃうんですね。

 余談ですが、スナフキンは、ミーと、みむら姉さんの甥に当たるって知ってましたか?漫画の絵と声だと考えられないけど・・・。

 私の心のふるさと、追原には、このところちょっとご無沙汰です。なんといっても今の季節の追原は、山ヒルとヘビ、いろんな虫たちの世界で、ちょっと人間(特に私)は入り込めないんですよね。12月には、「追原を歩く会」が、久しぶりに開かれます。



2006年2月
家の庭は草だらけ)もうすぐあと半月もすれば、七里川のフサザクラが川沿いのみちに赤い灯火を点す季節です。

 思えば追原を守ろうとして、いろいろなことを学びました。フサザクラもその一つ。「花びらがなくてめしべとおしべからなる花は珍しいんだぞ」「ここだけにしかないんだぞ」とか言って自然観察会でしゃべったけど、気がついたらほとんどの川沿いの崖にはありましたね。
 
 しかも、宣伝した割には地味。「想像していたほど綺麗じゃないですね」と感想を言われて「満開になるときれいですよ」となるはずのない満開を創作して苦しい答弁。(何たって花びらがないんだから仕方ないじゃん、とおなかの中で開き直り)でも、理科の時間にあぶら菜の花は、花びら、がく、めしべ、おしべ、とか習っていたので、フサザクラがいかに特殊かが理解できたんですよね。むだなようでも、学校の勉強は大事です。

 先日のうさぎAの荷物の中に、きれいに摘んだ菜の花が入っていました。昨日はあさりのすまし汁の中に菜の花を1本浮かせて食べました。ふきのとう味噌も作りました。かずさの正しい春の食文化です。

 七里川ではそろそろやませみが巣作りをする頃です。また川の上で魚のプレゼント合戦をしているでしょうか?めすがプレゼントを受け取ると、プロポーズ成立です。
 
2007年2月
 昨日、私たちは山の民と書きましたが、自然環境に関わるようになったのは、まさにそのことなんです。以前にも書きましたが、房総半島のほぼ中間を貫くように流れる小櫃川の源流域は、広大な東京大学の演習林になっていて、雨が降っても濁らない清流が流れています。

 山の会の例会で、その地域の廃村に連れて行ってもらった私たちは、そこに子どもの頃に育った風景を発見して大喜び。秋から冬にかけて何度も自分たちでそこを訪ねました。
 その廃村の名前をつけた「追原ダム」ができるという話が明るみに出たのが、丁度10年前の1997年の年末のことでした。

 何とかしてその場所を守りたいという思いで、山の会の中心だったUさんを親分にして、3匹のうさぎたちが守る運動をはじめました。
 その場所は、今から考えればあの、八ツ場ダムの吾妻渓谷からみれば、小川・・・くらいのもので、お恥ずかしいのですが、私たちにとっては貴重な原風景だったのです。

 1998年の春「追原を歩く会」を作り、多くの人に知らせることになりました。1回目の自然観察会には、私たちが声をかけた以外に、見知らぬたくさんの人が、久留里線の電車にぎゅうぎゅうになってこの山里に来てくれて、びっくりしました。

 それからいろいろな経験をしました。しろうとなので、今から考えると笑ってしまうようなことも沢山ありましたが、とにかく一生懸命。
 署名集め、あらゆるつてを頼っての宣伝、対県との交渉、記者会見、何度かの歩く会の自然観察会、同じ川を守っている人たちとの合同写真展、会報の発行・・・句会、歌会、撮影会、期成同盟(推進派)との話し合い、地元のおじさんたちとの交流、ビデオ撮影。

 大変だったけど楽しい時間でした。追原ダムについての窓口は、私たち4人しかいなかったんです。始めにそこへ連れて行ってくれた彼は「千葉にとってダムは必要」派でしたから。

 美しい水色の「追原ダム」のパンフレットも手に入れ、「ダムは不必要」の理論武装もでき、小櫃川中流域、河口域、盤洲干潟を守る人たちともつながって、そこから同じ東京湾奥に最後に残された干潟三番瀬の人たちともつながった頃、田中康夫氏の脱ダム宣言を追い風に、全国的なダムはムダな公共工事の風が吹き、何と私たちは追原を守ることができたのです。

 それは「時のアセス」。計画から5年以上経っても工事に着工していないものは不必要な工事・・・というものに該当したんです。2001年のことでした。その後、私たちに「ダムは必要だ」といって数字をあげて説明してくれた担当課のみなさんは「こういうわけで追原ダムは不必要」という報告書を作ったそうです。
 
 とにかく短時間で終わって良かったです。

 もう2月も終わり、渓谷は春の息吹でいっぱいの頃だと思います。フサザクラのあかいぼんぼりも灯を点し、くろもじの黄緑の芽のかぐわしさ、たけのこ堀の猪の足跡、渓流にはハヤやギバチが群れていることでしょう。

 思い起こせば次の冬で10周年です。記念の自然観察会などやったほうがいいかもね。




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